濃尾平野を見渡せる山地に立地する天然の要害だった小島城。土岐康行の乱で落城したと伝わる=揖斐郡揖斐川町春日六合
茶畑が広がる春日地域の山腹にあった小島城(正面)。尾根に沿ってひな壇状に約90の曲輪を備えた大規模な山城だった=同町春日六合
揖斐川歴史民俗資料館に展示されている「小島城・遺構配置模型」。美濃の中心的存在として栄華を誇ったであろう巨大山城のスケールを感じることができる=同町上南方
寺領を安堵する将軍足利義満の「御教書」。明徳元(1390)年5月6日の日付と美濃国本郷などの地名が読み取れる=同町瑞岩寺、瑞巌寺
瑞巌寺境内に立つ頓宮の碑

 室町時代の内乱の一つに、美濃を舞台にした「土岐康行の乱」がある。守護大名の土岐氏が、将軍を脅かすほどの栄華を誇ったことで、幕府に討伐された。

 岐阜県揖斐郡揖斐川町の春日地域。「天空の茶畑」を見下ろす山腹に、室町初期に土岐頼康が居城とした小島(おじま)城跡がある。頼康は美濃、尾張、伊勢の3カ国の守護を務めた幕府の宿老。南北朝の争乱時には、頼康を頼って天皇が小島に逃行し、仮の御所「頓宮(とんぐう)」が置かれたとされるほど権威があった。ところが頼康が没して2年後の1390年、乱の鎮圧によって土岐氏は勢いを失っていく。

 

 3代将軍足利義満は、自らの権力を強めようと、各地の守護大名の粛清を狙った。頼康亡き後、養子の康行が美濃の守護を継承すると、身内の分裂を巧みに誘発した。

 乱の引き金は、康行が尾張守護に、いとこで娘婿の詮直を任命したこと。「土岐氏主流累代史全」などによると、康行の弟満貞が将軍に取り入って尾張守護の座を奪うと、満貞と詮直は対立。両者は黒田(愛知県一宮市木曽川町)で一戦を交えた。康行が詮直に助勢すると、将軍は機を逃さず「逆臣行為」として、康行追討を命じた。

 小島城に攻め寄せた幕府軍には、近江や飛騨諸将のほか、康行の叔父・頼世(頼忠)も加わった。対する康行軍は容易に屈せず、京都の社寺では康行退治の祈祷(きとう)が行われたと伝わるほど。幕府軍にも多大な犠牲を出したことだろう。最終的に康行は降伏。処刑は免れたが、尾張と伊勢は没収された。

 頼康が1336年に創建した瑞巌寺(揖斐川町瑞岩寺)には、乱鎮圧の約1カ月後に将軍義満から送られた寺領に関する「御教書(みぎょうしょ)」が残る。美濃や尾張の地名が記されており、岡部大洽(たいこう)住職は「逆賊の菩提(ぼだい)寺だが、これだけの寺領が安堵(あんど)された」と説明する。

 乱の後、美濃守護職は頼世に与えられ、代々続いていく。土岐氏といえば、室町末期に斎藤道三の国盗(と)りの“敵手”として描かれることが多い。岡部住職は「幕府に目を付けられるほどの権勢を振るった時期もあった。織田信長や道三だけでなく、土岐氏の最盛期をもっと知ってもらえたら」と話した。

【勝負の分岐点】道三「国盗り」につながる

 土岐氏最盛期の背景や「土岐康行の乱」の影響について、土岐一族の研究団体「美濃源氏フォーラム」(瑞浪市)の井澤康樹理事長に聞いた。

 土岐頼貞から頼康までは、室町幕府創設の功労者で「土岐絶えれば足利も絶える」と言われるほど絶大な影響力を持っていた。

 その状況下で守護を継いだ康行は、将軍義満が土岐氏を苦々しく思っていることには気付いていたかもしれないが、まさか自分たちを追い落とす具体的な動きをするとは想像していなかっただろう。「思い通りにならないなら将軍を変えてやる」とでも思っていたのでは。絶対的な力を持っているからこそ、もっと危機感が必要だった。おごりや甘さがあったと思う。

 当時の土岐氏は勇猛で知られ、家紋にちなんで「桔梗一揆」と呼ばれる団結力を誇っていた。将軍は、一族内に対立軸をつくってその“鉄の結束”を崩壊させた。守護として土岐氏の美濃支配は室町末期まで続いていくわけだが、この一件での一族の弱体化が、巡り巡って斎藤道三の「国盗(と)り」の遠因となったと言えるかもしれない。

【小島頓宮と土岐氏】 南北朝の争いの中、都を逃れた北朝の後光厳天皇は、守護大名土岐頼康を頼って「美濃小島」に逃行。仮の御所「頓宮」に2カ月余ほど身を寄せた。頓宮の正確な場所は分かっていないが、揖斐川町の小島城、瑞巌寺、白樫神社の周辺との説がある。小島頓宮での出来事を、関白二条良基が日記「小島のすさみ」に書き残した。頓宮では連歌会などが開かれ「稲葉の山」が見えるとの記述もある。