このエッセーでもたびたび登場していた「ちくさ正文館」がこの7月末に閉店した。名古屋の文化シーンを担っていた書店であり、詩歌棚も充実したこの書店、私も歌集取り扱いに仕事の参考資料にと大変お世話になった。店長の古田一晴さんには書店員の枠を超えて、仕事の相談に乗っていただいたりと、もう長い仲だ。

 「もうやめまーす!」

 ある日の今池の飲み屋、オープンハウス。古田さんは半ばやけっぱちな笑顔でそう言った。何も返せない私に、オープンハウスのオーナーである森田裕さんは、感慨深そうに肯(うなず)いて言った。

 「そりゃ、そうもなるわ。あれは実質古田さんの店だもん。古田さんが続けられなくなったら閉まってもしょうがないよ」

 「おお、森田、すっきりいうなあ。そうなんだ、そうなんだよ……」

 その時の、ようやく胸のつかえがとれたような古田さんの顔は忘れられない。

撮影・三品鐘

 古田さんも今72歳。名物店長としてここまで長年勤め上げたことが驚きだが、いざ店じまいとなると、やりたいことや行きたいところが沢山(たくさん)あるのだそうだ。それだけのエネルギーと情熱が残っているから、とっくに引退の歳(とし)まで「あの名古屋の本屋の店長さん」を続けていられたんだと思う。何せ今までスマホも持ち合わせず、連絡は店の電話番号一本のみだったところを、その歳になって一からインターネット回線を家に引き、スマホを予約してと新生活が楽しみでしょうがないらしいのだから。

 閉店の日は、あえて閉店の瞬間には立ち会わなかった。沢山のお客さんが詰めかけたそうだが、あの正文館が閉まるとなると、湿っぽく泣いてしまいそうで嫌だったのだ。長年、古田さんと馴染(なじ)みの書店員さんが最後まで文化に身を浸して勤め上げたお店。閉店も一つの門出として、晴れやかにただ聞き届けたかった。だけど今は後悔している。湿っぽくなってもいいから、私は閉店をお店に行って見届けるべきだった。古田さんが店長古田さんを、お馴染みの書店員さんが最後まで書店員さんを最後までやり終える時を、死ぬほどお世話になった者として見届けるべきだったのだ。

 そんなことでじっとしていると、その3日後、知らない電話番号から着信があった。「もしもし、古田です」。どうやら無事スマホを買って、片っ端から電話をしているらしい。これから出会う古田さんは、本屋の店長さんではない。でもずっとあの古田さんだ。


 岐阜市出身の歌人野口あや子さんによる、エッセー「身にあまるものたちへ」の連載。短歌の領域にとどまらず、音楽と融合した朗読ライブ、身体表現を試みた写真歌集の出版など多角的な活動に取り組む野口さんが、独自の感性で身辺をとらえて言葉を紡ぐ。写真家三品鐘さんの写真で、その作品世界を広げる。

 のぐち・あやこ 1987年、岐阜市生まれ。「幻桃」「未来」短歌会会員。2006年、「カシスドロップ」で第49回短歌研究新人賞。08年、岐阜市芸術文化奨励賞。10年、第1歌集「くびすじの欠片」で第54回現代歌人協会賞。作歌のほか、音楽などの他ジャンルと朗読活動もする。名古屋市在住。

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