20代の頃は全くしなかった旅が、遅咲きで楽しくなってきていたところに、新型コロナウイルスがやってきた。

 去年11月は新型コロナ第3波が激しくなる前に新人賞選考で大阪を訪れ、二泊の一人旅を過ごした。最近滅多(めった)にできないからか、一人旅への欲が溢(あふ)れてきている。友達や家族と行く旅もいいけれど、一人の旅は自分との対話の時間だ。どんな宿に泊まろうか、どこに行こうか、どこで乗りつごうか。こことここならどっちに行こうか。偶然目に入った空間にふらりと入るのが、また何より楽しい。遠くに行ったからといって、あちこちを回る必要もない。

 今回も大阪老舗喫茶、丸福でコーヒーを飲んで、しばらく何もせずにぼうっとしていた。旅とは名所を回るだけではない。知らない場所に自分を置く、心地よい緊張の時間なのだ。

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(撮影・三品鐘)

 今回は難波の路地をうろうろしながら、お好み焼きを食べ、夫婦善哉を食べ、気がつけば大阪出身のシンガーソングライターの矢井田瞳の曲を聞き続けていた。大阪人の人となりや空気を嗅(か)ぐうちに、ふと、矢井田瞳のメロディーが腑(ふ)に落ちたのである。ポスターを見たわけでもなんでもない。でも不思議と旅は自分の無意識にリンクしてきてくれる。

 一昨年、2週間ほど夏滞在したオーストリアの都市、ザルツブルクでは、毎日決まった教会で蝋燭(ろうそく)に火をつけ、30分ほどお祈りをするのが自然と日課となった。迷いや悩みが多い時期に、その素朴な教会はぴったりだったのだろう。そして、正面に飾られたキリスト像より、片隅に飾られたマリア像にばかり目がいく自分が不思議でもあった。母との関係に悩んでいた時期だったからこそ、聖母の姿に惹(ひ)かれたのかもしれないと今なら思う。

 早くあちこちと旅に行きたい。そこには見たことのない光景、食べたことのない食べ物以上に、見たことのない思考が広がっている。今は旅行ガイドブックを覗(のぞ)きながら、これからあちこちで体験したいことを数える日々である。ただでさえ制約が多い生活だけれど、気持ちさえ開かれていれば、きっと世界はすでに開かれているのだと思う。遠くに想(おも)いを馳(は)せることは、あなたの知らないあなたに、きっと出会える。


 岐阜市出身の歌人野口あや子さんによる、エッセー「身にあまるものたちへ」の連載。短歌の領域にとどまらず、音楽と融合した朗読ライブ、身体表現を試みた写真歌集の出版など多角的な活動に取り組む野口さんが、独自の感性で身辺をとらえて言葉を紡ぐ。写真家三品鐘さんの写真で、その作品世界を広げる。

 のぐち・あやこ 1987年、岐阜市生まれ。「幻桃」「未来」短歌会会員。2006年、「カシスドロップ」で第49回短歌研究新人賞。08年、岐阜市芸術文化奨励賞。10年、第1歌集「くびすじの欠片」で第54回現代歌人協会賞。作歌のほか、音楽などの他ジャンルと朗読活動もする。名古屋市在住。

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