石積みで造られた多角形の「天守台」=瑞浪市稲津町、小里城跡
記者独断の5段階評価

難攻不落度

「天然の防御機能。切り立った山の地形と、小里川が堀の役割を果たす」


遺構の残存度

「山肌には石垣が点在し、石材には加工の跡も確認できる」


見晴らし

「国有林が生い茂る。山頂の一部からは瑞浪市街地方面を望める」


写真映え

「御殿場跡の石垣、山頂の天守台など〝映えポイント〟多数」


散策の気軽さ

「登山道は整備されているが、山頂までは30分ほど。やや健脚向け」


 標高約405メートル、険しい登山道を登り切ると山頂に突如、苔(こけ)むした多角形の石積み天守台が現れる。岐阜県瑞浪市稲津町の通称城山に築かれた小里(おり)城は、かつて織田信長が対武田の最前線基地とした山城。山頂になぜ安土城と類似する多角形の天守台があるのか、いつ造られたのか、謎が残されている。

 城は戦国期に小里光忠が築いたと伝わる。以降は一時期を除いて江戸初期まで小里氏が居城とした。1572年に武田氏が岩村城(恵那市)を攻略し、2年後に明知城(同)に迫ると、信長は対武田の拠点として小里城の改修を命じ、池田恒興を配した。

 小里城跡の魅力の一つは、麓でも大きな遺構を見学できること。県道沿いの登城口からすぐ、斜面に石垣が登場。その先に大手門跡と御殿場跡。長さ数メートルの石垣は部分的に崩れている。そこから本格的な山道を約30分登ると、山頂部に着く頃には真冬だというのに汗がしたたり落ちた。

外周を回ると四角形ではない多角形であることが分かる

 山頂の本丸曲輪(くるわ)には、天守台と呼ばれる高さ3メートルほどの石積みが残されている。多角形の天守台は珍しいが、これは近代に積み直されたもの。天守台の内部から見るとほぼ四角形だが、やや五角形にも見える。外周をぐるりと回ってみると、外部は六角形であることが分かる。

 多角形天守台といえば、安土城が思い浮かぶ。その類似性から「信長が安土城の試作として造ったのでは」との考察もあったという。ただ、一帯は国有林のため本格的な発掘調査が行われておらず、戦国期の城の全容は分かっていない。江戸期の城絵図には、山頂に土で築いた人工的な壇のようなものが描かれているという。昭和29年に建てられた石碑に「復元、修復した」の文言。元々あった痕跡に沿って復元したのか、模擬的に造ったのか―。

石積みの上から内部を見下ろしても多角形であることは分かりづらい

 天守台周辺には、巨大な岩が散在している。その多くには矢穴など加工された形跡があり、まるで改修工事の途中で何百年も時が止まったかのよう。その謎めく雰囲気が、歴史ロマンをかき立てる。

 
【攻略の私点】天然の防御機能、対武田の前線基地

 織田信長の対武田拠点だった小里城の機能や特徴について、瑞浪市教育委員会スポーツ文化課・学芸員の砂田普司さん(44)に聞いた。

 城山は急斜面の地形で、さらに麓を流れる小里川が堀の役割を果たし、天然の防御機能を有している。南側は高い山があり尾根が続いているが、堀切によって尾根線を分断している。

 小里川の谷に沿って道が恵那市の明智や岩村方面に通じており、当時も武田の動きを監視できただろう。

麓の御殿場跡の石垣。左側は江戸期の原形をとどめているとみられる

 この城跡の特徴は、遺構が山頂の「本丸曲輪」と山麓の「御殿場跡」の2カ所に分かれていること。本丸曲輪は後世に改変され不明な点も多いが、御殿場跡については、江戸中期頃の城絵図にも立派な石垣が描かれている。大手門跡の向かって左側の石垣は、積み方から当時のまま現存していると推察される。曲輪からは、礎石や江戸期の遺物が見つかっており、城主の館や役所のような建物があったとみられる。

 江戸初期に小里氏が断絶となり、小里城は廃城となった。使われた期間は短いものの、それゆえ江戸初期の姿を今に伝えてくれている。