50年の鵜匠人生を終えた山下純司さん。「これからも鵜の世話は続けたい」と語る=岐阜市長良

 鵜と語らい、川と共に生きた鵜匠だった-。岐阜市の長良川鵜飼で50年間、鵜匠を務めた山下純司さん(83)=同市長良=が3月31日、長男の晃正(てるまさ)さん(52)に跡を譲り、引退した。少年の頃から鵜飼に関わり続け、2017年までの15年間は鵜匠代表も担い、岐阜の伝統文化の継承に尽力してきた。「たくさんのことを鵜から教えてもらった」と晴れやかな表情で語り、経験を次代に伝えることを誓っている。

 2歳で母親を亡くした純司さんにとって、鵜は家族のような存在だった。純司さんは「普通の家庭のような温かさは少なかったが、鵜が埋めてくれた」と振り返る。小学生時代から、鵜飼漁に出る父を追い、自然に鵜舟に乗っていた。船頭から操船の所作を学び、技術は体で身に付けてきた。中学生になる頃には助けなしでも操船できた。

 純司さんが33歳で鵜匠に任命された1972年当時は、高度経済成長の末期。現在の3倍以上、約140隻の観覧船があり、乗船できない観客が出るほどにぎわっていた。「本当に船まるけ。あの頃は最高やった。活気もあったし、川の魚も多かった」と懐かしむ。

 純司さんは、鵜匠になる前から50年以上にわたり、自宅横で喫茶店を経営する。今はコロナ禍で休業中だが、店内からは鵜が生活する「鳥屋(とや)」を眺められ、鵜匠家に伝わる「鮎鮨(あゆずし)」を提供。コーヒーを片手に来店客と鵜飼の歴史や思いを語る場だった。

 2002年からは鵜匠代表を務め、技術の継承に力を尽くした。それまでは鵜匠同士は対抗意識もあり、普段は漁の技などを聞きづらい間柄だった。純司さんは月に1度、顔を合わせる機会として鵜匠会議を始め、情報共有の場を設けた。17年に代表を退いた後も会議は続き、鵜匠6人でつくる「岐阜長良川鵜飼保存会」の活性化にもつながった。現在の鵜匠代表、杉山雅彦さん(61)は「鵜匠会議が土台になって、今の鵜飼がある。後世に伝えるためにも続けていきたい」と語る。

 年齢を重ねても漁を続けてきた純司さんだが、5年前に肝臓がんを発症。一命は取り留めたものの、年々体力の衰えを感じるようになっていた。昨年までの2年間は漁には出ておらず、今年からは鵜匠家の屋号「マルイチ」を晃正さんに託すことを決めた。

 鵜匠補として約30年間、純司さんを支えてきた晃正さんは来月11日の鵜飼開きでの鵜匠デビューを控える。「鵜や鵜飼のことを第一に考えてきた父を見習い、マルイチの鵜匠として頑張りたい」と意気込む。

 純司さんは引退後も18羽いる鵜の世話や鳥屋の掃除を続けている。「川や鵜のおかげで生きがいある日々を暮らせる。この世を去るまで付き合いたい」と静かにほほ笑んだ。