歌集「くびすじの欠片」「夏にふれる」「かなしき玩具譚」の装丁をしてくださった菊地信義さんが3月末に亡くなった事(こと)をつい先日知った。菊地さんは日本で随一と言われる装丁家であり、近年は彼の仕事が「つつんで、ひらいて」という映画になった。招待された試写会で私は、見ているだけで勝手に歌集のお礼が言えた気がしたほど呑気(のんき)だった。実際は、お礼も恩も返せていないのに。

 

 彼が最初に第1歌集「くびすじの欠片」を引き受けてくださったときは「僕の装丁代なんかいいから、いい紙で贅沢(ぜいたく)な装丁にしましょう」と言ってくださっていたと後で知った。その後、私の若い潔癖さからくる「できるだけシンプルな装丁がいい(あの何でもできる菊地信義に!)」というわがままに応じ、シンプルに白と青、でも帯と表紙が繋(つな)がって折られているという一癖ありの装丁、また第2歌集では「華やかさは欲しいけどピンクやオレンジはいや」という注文にゴールドベージュの表紙とトレーシングペーパーの帯で、化粧品のパッケージのようなイメージを与えてくれた。今思うと信じられないわがままさだが、そのアンサーもまた信じられない美しさだった。

(撮影・三品鐘)

 話は変わるがここ数カ月体調を崩し、短歌のライバルと感じている友人に追い抜かれていく事に強い焦りを感じていた。もっと話題にならなければ、もっとみんながびっくりするような作品を書いて評価をもらいたい、そんな黒い焦りが、深い業が、菊地さんの訃報で憑物(つきもの)が落ちたように消えた。目立ちたい、お金が欲しい、すごいって思われたい、それは表現者にとって自然な欲望だ。でも、人間として一番幸せな事って何だろう。それはやはり、素敵な縁に恵まれて生きていける事じゃないだろうか。どれだけ温かい思い出を抱えて生きて死んでいけるか。それがなく追い立てられるだけの人生はきっと寂しい。

 初めてお会いした喫茶「樹の花」の窓際、逆光を浴びて菊地さんが座っていた事。いつも真っ黒の、仕事道具のような黒いシャツ。「かなしき玩具譚」の打ち合わせのお店の内装を見ていると、「どう、『玩具』みたいなお店でしょう、だから今日はここにしたんです」と得意げにおっしゃられた事。全部心にプリントされたように焼き付けられている、とびきり温かい記憶だ。そう思い出しながら、今、3冊の歌集を眺めている。


 岐阜市出身の歌人野口あや子さんによる、エッセー「身にあまるものたちへ」の連載。短歌の領域にとどまらず、音楽と融合した朗読ライブ、身体表現を試みた写真歌集の出版など多角的な活動に取り組む野口さんが、独自の感性で身辺をとらえて言葉を紡ぐ。写真家三品鐘さんの写真で、その作品世界を広げる。

 のぐち・あやこ 1987年、岐阜市生まれ。「幻桃」「未来」短歌会会員。2006年、「カシスドロップ」で第49回短歌研究新人賞。08年、岐阜市芸術文化奨励賞。10年、第1歌集「くびすじの欠片」で第54回現代歌人協会賞。作歌のほか、音楽などの他ジャンルと朗読活動もする。名古屋市在住。