離婚前、夫の振る舞いにいてもたってもいられなくなって名古屋の交番に駆け込んだことがある。女性警察官は、民事とはいえ話を丁寧に聞いてくれ、私は昂(たかぶ)りきって涙を流していた。相当取り乱していたのだ。誰にも打ち明けられなかったことを一つ一つ話しているうちに、心がほぐれていくのを感じた。女性警察官は私が落ち着いてきたことにほっとした顔をし、じゃあ、念のため、鞄(かばん)の中を見せてください。と言った。鞄の中には財布、スマホ、化粧ポーチに2冊の本。歌集と……やばいと思った。
もう1冊の本が「三島由紀夫と楯(たて)の会事件」だったのだ。彼女は上司らしき人を呼び出し、その本の内容をよく読み始める。極右ではないことを確かめているのだ。もちろん、この本は三島由紀夫の人生を追ったルポルタージュ。極右ではない。そのうち彼らは歌集さえ怪しみ始める。確かにこの流れで出てくる古典の本は怪しい。「俳句…みたいな本ですね」「そのようです」「わかりました、じゃあ、気をつけて帰ってください」。その彼女の目には「リスカも割腹もしないでね」という心配そうな顔がのぞいていた。
文学者としての三島由紀夫が好きだ。そしてここ2年、週末にラップの現場に行って20歳前後のラッパーとはっちゃけている間に、楯の会を立ち上げた三島由紀夫は、重責に追われてはっちゃけたかったんだなと言うことがわかってきた。仕事モードになれば沢山(たくさん)の執筆、講演と人気作家の名を欲しいままにして自由も少なかったであろう三島由紀夫が、一番はっちゃけていた場所、それが楯の会だろう。楯の会メンバーは文学的素養もなく政治と筋肉バカの若者たちであふれていたと聞く。そんなクソ元気な若者に囲まれて、筋肉がどのくらい鍛えられたかとか、政治トークができるなんて、中年の三島にとってご褒美時間だったことだろう。
仕事の面倒くさいことから離れて肉体とバイブスに身を任せていたい。それはラップにはまった私も同じことで、この仕事が終わったら週末はラップ三昧にするんだ、るん♪ と思うと手を抜きたい仕事にも自然と力が入る。仕事とラップでウィンウィンだ。まさに三島由紀夫と楯の会縮小版。私はひよっこメンバーだが、イベントでラッパーの彼らと集合写真を撮ってインスタにあげる時、これ、三島も絶対やりたかっただろうな、と思う。忙しい大人ははっちゃけたいのだ。
岐阜市出身の歌人野口あや子さんによる、エッセー「身にあまるものたちへ」の連載。短歌の領域にとどまらず、音楽と融合した朗読ライブ、身体表現を試みた写真歌集の出版など多角的な活動に取り組む野口さんが、独自の感性で身辺をとらえて言葉を紡ぐ。写真家三品鐘さんの写真で、その作品世界を広げる。
のぐち・あやこ 1987年、岐阜市生まれ。「幻桃」「未来」短歌会会員。2006年、「カシスドロップ」で第49回短歌研究新人賞。08年、岐阜市芸術文化奨励賞。10年、第1歌集「くびすじの欠片」で第54回現代歌人協会賞。作歌のほか、音楽などの他ジャンルと朗読活動もする。名古屋市在住。









