「野口さんは、人、好きですもんね。しんどいのはそこですよね」

 1月、名古屋市・大須のエスニックカフェ。仕事終わり、写真家の三品鐘はビールを立て続けにあおりながら、もどかしそうに呟(つぶや)いた。文化系の仕事は秋冬、驚くほど忙しい。その証拠に彼の指は象のようにささくれてひび割れていて、そのくせこうして時間を作ってくれるし、煙草(たばこ)すらやめようとしない。俯(うつむ)いている私に、彼は煙草1本とライターを差し出した。もう煙草すら必要としなくなったほど満ち足りていた生活の、急な喪失。それが詳しく言わずとも彼には伝わるのだろう。彼の煙草は、いつも黄色いパッケージのスピリットだ。

 あまりに混乱すると、どこが痛いのか、何が辛(つら)いのか、自分でもわからなくなる。でも三品鐘が相変わらず黄色いスピリットを吸っているということは認識できて、人の存在は私よりも私を支えてくれる。みにp.jpg

(撮影・三品鐘)

 ものを書くなんて仕事をしているから、さぞ主張や個性のある人間なんだろうと思われることが多々ある。でも、私を作っているのは、私の内面なんかでなく、圧倒的に外の世界だ。エスニックカフェのオープンテラス、いまいち磨き切れていない灰皿。三品鐘が立て続けにふかす煙草。その指のひどいささくれ。水際のようにビールグラスに残る泡、そして、黄色いスピリット。

 促されてつける煙草の懐かしい味。頬にあたる冷たい風、煙。そういう時間やものが積み重なって、私の中で地層になっていく。そうして、その地層に意味をつける。歴史に分け入る。必然だったと思い込む。偶然だったと諦める。

 「でも、大丈夫だと思います。今回のことも」

 投げかけるべき言葉を持て余している彼に、私は空々しく呟いた。もう無くしたものの、愛したかった、美しかった部分を反芻(はんすう)しながら。

 どうか皆幸せに長生きをしてください。通り過ぎた景色の中で私を支えてくれた、表情や、声や、手触りを思いながら、それは次第に美しい地層になっていくから。今の感情も、いつか掘り起こしたら、きっと綺麗(きれい)な化石になっているだろう。私のことは忘れていいから、どうか皆幸せに長生きをしてください。


 岐阜市出身の歌人野口あや子さんによる、エッセー「身にあまるものたちへ」の連載。短歌の領域にとどまらず、音楽と融合した朗読ライブ、身体表現を試みた写真歌集の出版など多角的な活動に取り組む野口さんが、独自の感性で身辺をとらえて言葉を紡ぐ。写真家三品鐘さんの写真で、その作品世界を広げる。

 のぐち・あやこ 1987年、岐阜市生まれ。「幻桃」「未来」短歌会会員。2006年、「カシスドロップ」で第49回短歌研究新人賞。08年、岐阜市芸術文化奨励賞。10年、第1歌集「くびすじの欠片」で第54回現代歌人協会賞。作歌のほか、音楽などの他ジャンルと朗読活動もする。名古屋市在住。

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