甲子園開設100周年の昨年1年間にわたり、主力選手のインタビューで岐阜県代表が聖地に刻んだ激闘を振り返る企画「甲子園100年ぎふ」。昭和末から平成、令和と37年にわたり岐阜県高校野球を取材してきた記者にとっても、初めて耳にする秘話が満載で、改めて岐阜県高校野球史を深掘りする機会となった。総集編(下)として、特に記者の心に残ったとっておきの秘話、エピソード、各選手の思いを紹介する。
◆〝岐商野球〟伝統の結実1959年春準優勝
戦前に選抜3度、選手権1度の甲子園制覇を誇り、現在まで岐阜県高校野球をリードしてきた県岐阜商。その〝岐商野球〟の根幹をなしてきたのが、機動力を駆使したスモールベースボールだ。
最初の日本一の1933(昭和8)年選抜決勝の1―0の決勝点がスクイズだったことに始まり、猛打を誇った県勢唯一の選手権優勝の36(同11)年などがあったものの、ロースコアで1点を守り切る野球で甲子園を席巻してきた。その結実が惜しくも決勝で敗退したものの高木守道主将(元中日)率いる59(同34)年の選抜だ。

岐阜商の指導者は東京六大学などで活躍した名選手が務め、戦後は社会人のOBが務めた。戦後の学制改革で名門野球部は一時、消滅したが、51年4月に県岐阜商が新設され、再スタートを切った。再建を担ったのが36年夏選手権優勝のベンチ入りメンバーである中野鍵一さんだ。普段の学校生活含め、選手を鍛えるのが教員で部長の中野さん自身で、甲子園などでの采配をOBに任せる指導スタイルだった。
OB監督で最も実績を挙げたのが、33年選抜で最初に全国制覇した時の主将で、社会人野球の大日本土木でも監督兼選手として黄金期を築いた村瀬保夫さん。清沢忠彦さんを擁し、56(同31)年に春夏準優勝に輝いた村瀬野球はまさに岐商の王道だが、59年は中野さん自ら監督をし、伝統の〝岐商野球〟を究極まで高めた。
同年の捕手で高校野球指導者も務めた国井恒男さんは「バットを短く持ち、センター返し中心の〝短打主義〟や、今では当たり前の継投を65年前に確立した」と振り返る。
中でも継投は捕手として苦心し「1学年下の左腕近藤精吾、右の宮嶋忠、左腕の鷲見領一の3人が左右順番にマウンドに上がった。準決勝の長崎南山戦では近藤が七回一死までノーヒットノーランだったが、中前安打を打たれた直後に交代。必ず、どの試合も継投で、それぞれの良さを引き出すのに苦労した」と振り返る。バントも岐商野球の根幹で2回戦戸畑(福岡)戦での6連続バントは今でも甲子園記録だ。
◆村瀬マジック(64年夏)・3試合連続サヨナラ試合(92年夏)
中野さんの継承者となったのが、同校校長や県高野連会長も務めた小川信幸さんだが、主将だった高校3年時は、同校で唯一、春地区大会敗退。だが、甲子園ベスト4の〝下克上〟を果たす。
その鍵が村瀬さんの監督復帰で小川さんは「選手の特徴を瞬時に見抜き、最適なワンポイントのみを的確に指導した」「適材適所もすごく、何人もコンバートした」と名将ぶりを語る。中でも岐阜大会1回戦の加茂戦で6エラーが出て大苦戦した後のマジックは語り草。
「村瀬監督に『お前たちの夏は終わった。これからはおまけでやらせてもらえると思ってやれ』と言われた。さらに次の試合の前に『精神鎮静剤だ。みんな飲め』と薬を渡され、飲んだ。後で聞いた話では、監督の奥さんがただのビタミン剤を一つずつ紙にくるんで用意されたとのこと。でも負けたらどうしようと思っていた気持ちが楽になり、その後の甲子園ベスト4につながった」と語る。
小川さんが監督の1992(平成4)年夏は、甲子園史上2校目の3試合連続サヨナラ試合を演じる。主将の横井泰昭さんは阪口慶三監督率いる東邦との3回戦について「サインを見破られていたのが敗因。うちはサインが3種類あって、試合ごとに変えていたんですが、見破られて、盗塁もエンドランも全てばれてました。裏を取ったつもりが、その裏を取られているみたいな感じ。普通の戦い方が通用せず、両監督の意地の張り合いだった」と振り返る。

◆岐阜復活の2度のベスト4・岐阜城北(2006年春)、県岐阜商(09年夏)の藤田采配
岐阜県高校野球は全国から有望選手を集める私立全盛時代となり、長らく甲子園で成績が上がらない時代が続いた。だが2006(平成18)年選抜で59年の国井さん準優勝以来の県勢47年ぶりにベスト4に岐阜城北を導き、09(同21)年選手権では母校県岐阜商を45年ぶりベスト4に導いた監督が藤田明宏さんだ。
その原点が自身が主将で出場した1985(昭和60)年選手権初戦の2回戦甲西(滋賀)戦の5―7での敗退。藤田さんは「負ける相手ではなかっただけに、ものすごく悔しかった。指導者になって、ここきて絶対に勝つと強く思った。相手ではなく、自分と戦っていて、力が出し切れなかったし、全く楽しめなかった。この経験から、指導者になって、選手に自分を出し切らせ、楽しませることを一番に考えた」と語る。
06年岐阜城北躍進の立役者エース尾藤竜一さんは、序盤で6失点しながら、ナインが力を出し尽くし、逆転勝ちした2回戦智弁和歌山戦をターニングポイントに挙げる。

「(逆転後)こうなったら、何としても勝ちたいという気持ちが高まって、アドレナリンが一気に出て、ギアを上げた。気を抜かずに決め球のスライダーをうまく使い、一球一球大切に投げた」と明かす。
09年県岐阜商主将の松田智宏さんは「藤田先生は言葉で選手に最高の力を出させる指導者。それが、甲子園ベスト4につながった」と語る。

藤田さんは13(同25)年選抜、長男凌司さんとの親子鷹で、ベスト8になる。凌司さんは2回戦での3季連続Vを狙った大阪桐蔭撃破をターニングポイントとし、さらに六回の打席で右足に受けた死球が勝利の要因と言う。
「勝ちきれるかというプレッシャーを、痛いという気持ちで打ち消し、メンタルを保とうした。さらにチェンジアップがすごく有効だった試合ですが、痛みでさらに遅くなり、強打線にとって打ちにくさが増したような気もします」と語る。

◆阪口野球のさく裂・大垣日大準優勝(07年春)、甲子園記録9点差逆転(14年夏)
県岐阜商復活とともに欠かせないのが愛知東邦の名将阪口慶三さんの大垣日大監督就任。就任3年目の2007(同19)年選抜で準優勝に導くが、当時「仏の阪口」が躍進の要因と言われたが、「仏」はあくまで普段の態度で練習は「鬼」だった。

同年の捕手箕浦和也さんは「甲子園は岐阜県で一番練習した成果を100%出せた場所」と語る。甲子園記録の最大8点差の逆転勝ちのドラマを演じた14(同26)年の1番種田真大さんは「必ず、ひっくり返せるイメージがあった。何と言っても、阪口(慶三)先生のあきらめない〝魂の野球〟が全員に浸透していましたから」と明かす。

17(同29)年、18(同30)年に2年連続選手出場したエースの修行恵大さんは「昔の東邦時代の練習に戻すと言われ、一気に練習がきつくなった」、1学年下の内藤圭史さんは「初めて、冬の練習を知った。こんなきついんだと思い『こんな練習本当にやるんですか』と先輩に聞いたら『去年の方がきつかった』と言われた」と語る。
県岐阜商の藤田監督退任後、鍛治舎巧監督就任まで岐阜県は大垣日大と中京の2強時代に突入し、12季連続対戦し、6勝6敗の互角の戦いを演じるが、その秘話も掲載した。連載ではほかにも甲子園を彩った各校の主力選手のインタビューに、今だから語れる多彩なエピソードに満ちている。
◆鍛治舎巧監督メモリアル100号アーチ(1969年夏)など甲子園は名将の原点
甲子園は、藤田さんがそうであったように岐阜県高校野球の名将たちの原点。1969(昭和44)年選抜で選抜甲子園100号のメモリアルアーチを放った鍛治舎巧さんは「なかなかチャンスで打てなかったが、このホームランをきっかけにチャンスに強いバッターになった。日下部政憲監督に野手専念を言われ、早大時代にも東京六大学の神宮800号を打った。高校でも大学でもメモリアル本塁打を打っているのは、私だけだと思います」と語り、その後の選手、指導者としてアマチュア野球の第一人者の道を開いた。

土岐商で2度甲子園に導いた工藤昌義さんは、82(同57)年夏に県岐阜商4番で甲子園に出場するが、夏の岐阜大会で自らに課した宿題のために高校野球監督人生をかけた。
甲子園の新たな歴史の幕開けとなる2025年。今年は、岐阜県高校野球を彩った名将たちの独自の選手育成や組織づくり、戦略戦術などを深掘りするインタビュー「ぎふ高校野球・名将流儀」を毎週木曜日更新で連載する。1月9日の第1回は元県岐阜商の鍛治舎巧監督。
取材・文 森嶋哲也(もりしま・てつや) 高校野球取材歴37年。昭和の終わりから平成、令和にわたって岐阜県高校野球の甲子園での日本一をテーマに、取材を続けている。